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Rockers 外伝


Text by Shizuo Ishii(石井志津男)

ジャマイカを舞台にした超一級のカルト・ムーヴィ「Rockers」は1977年に撮影がスタートして78年に完成した。スタートした時は監督のテッド・バファルコスが30歳、プロデューサーのパトリック・ホージーは28歳だった。はっきり言おう。この映画の完成以降35年が経過しても「Rockers」を超えるジャマイカ映画を俺は知らない。そしてこの映画の裏には日本人Cherry Kaoru Halseyも関わっていたことはあまり知られていない。「Rockers」を80年から5年間、最初に日本配給した関係で彼女とは40年ちかい付き合いになる。

1月の終わりの暖かい日、表参道ヒルズ前で待ち合わせ、久しぶりに会ったCherryの体調は良さそう。「フライが食べたい」というから、トンカツの”まい泉”に行ったのだが長〜い行列。しかたなくトンカツ弁当のテークアウト。OVERHEATまで話しながらぶらぶら歩いて来て、ゆっくり食べたトンカツは美味しかった。

●Cherryとは40年ちかくの長い知り合いなんだけどさ、実は知らないことだらけ。どんないきさつで70年代の中頃、パトリックと結婚してRockesの撮影でジャマイカに行ったわけ?

Cherry(以下C):結婚する前に海外旅行をしたいと思って、最初はカリフォルニアのスタンフォード大に行っていた友達の家に滞在して、次にマンハッタンのチェルシーに住んでいた絵描きの友達の家に泊まっていたんです。あの時代のチェルシーはまだお金のない人たちが住む汚い地域でプエルトリコ人とかスパニッシュの人たちが住んでいたんです。泥棒に入られてお金を盗られたりして、しかたなくヴィレッジの床屋さんでシャンプーをするアルバイトをしてたの。あの時代はユニセックスとかいって、女の人も床屋さんで髪を切るのがちょっと流行ってた頃。窓から長い金髪の男性がジーッと中を見て髪を切ろうかどうしようか迷ってるふうだったの。オーナーが「さっさと呼んで中に入れろ」って言うから「ハーイ」とか言ってね。それがパトリックとの出会いです。
「ここら辺に日本レストランない?」って聞かれて、「あそこにあるらしいです」って言ったら「食べに行かない?」とか言われて、行かなかったけど。
あとで分かったけど、彼はすぐ近くに住んでいて全てを知ってた。

●知ってたんだ、あっはっは。その頃のパトリックは映画の仕事をしていたの?

C:あの取材(1981年、近代映画社刊「New York City Book」)に行ったハリー・スミスを覚えているでしょう?1991年にハリーは亡くなったけど、パトリックは彼のアシスタントをしていたの。ハリー・スミスはフィルムメーカー、画家、音楽家、評論家、哲学者、人類学者、奇術師、詩人、レコードや絵本のコレクターとしてすごく偉大な人物なのよ。ハリー・スミスのコレクションがゲッティーなんとかってあるでしょ。




●覚えているよ。あのホテル・チェルシーに住んでいた人でしょう? それってGetty Research Instituteだよね?(写真がハリー・スミス)

C:そうそうゲッティーのミュージアムには、つい最近ハリー・スミスのための場所が設けられたし、ハリーが集めたアメリカインディアンの民族衣装などはスミソニアン博物館に収まってるし、音楽ではハリーが十代のころから集めていたアメリカンフォーク、ブルーグラス、ブルースなどの音源を1950年代の始めに6枚組の『アンソロジー・オブ・アメリカン・ミュージック』としてLPを出して、色んな人たちに大きな影響与えたのが認められてハリーは1991年のグラミー賞でライフタイム・アチーブメントをもらったんだけど、その数ヶ月後に亡くなったのね。その後2006年にはこのアンソロジーとハリーに関するドキュメンタリーも制作されて、その頃はもう(夫の)パトリックは亡くなっていたけど、彼が持っていたフィルムとかそういうのも貸してあげたり。その頃に公開されていた『マハゴニー』って言うフィルムもパトリックが撮影を担当していたもので、実験的映像として有名なのね。なにせハリーはフィルムのワン・フレームごとに手でペイントしたりしてた人。そのハリーのアシスタントをしていたのがパトリックで、後にも先にも彼のアシスタントはパトリックしかいないの。

●それはすごいね。パトリックとハリー・スミスとの出会いは?

C:パトリックのお姉さんが友達だったみたいで、それでパトリックが最初にニューヨークに来た時は、お姉さんのところにお世話になっていて、その家には詩人やビートニック、ああいう系統のすごい人達が集まるところでハリーもいたのね。

●パトリックはどこの出身なの?

C:パトリックはミズリー州。テッド(バッファロコス)も 彼の自伝書みたいな本『Rockers DIARY』(アップリンク刊)の中で言っている様に、パトリックはフィルムの大学に行って勉強したとかそういう人じゃなく何の理論の束縛もなく開放されていた。だからフィルムの道はハリー・スミスさん。だからそれだけでもすごい。ハリー・スミスはすごい人だったと思う。

●そのテッドさんもハリー・スミスと関係あるの?

C:ないない、テッドは全然関係ない。

●彼のバイオグラフィーにはコマーシャル・フィルムをやってたと書いてあったね。(2005年の来日時にRiddim誌でインタヴューした)

C:テッドは高校までギリシャで育ち、 彼のお父さんが世界中を廻った船員でお父さんの勧めでアメリカ東海岸のロードアイランド・アートスクールという有名な大学に留学したのね。その時の同じ学校の仲間がパトリックと仲良しだった。テッドがパトリックに興味があったのはただ一つ、ハリー・スミスのアシスタントだったからってことだけ。というのはテッドの世代の人は大学時代といえば必ずスミスさんのレコード・コレクションで育ってるわけ。とにかく気の利いてる人だったら、ハリー・スミスのコレクションを持っている時代で、みんなが奪い合いだったんだって。
ハリー・スミスは双子座だから何にでも興味を持ってやるし、その全部が優れてる人なんですよね。パトリックが関わったのは大体が映像。
テッドとも知り合いになると、テッドも変わってる人だった。みんなマリファナをスパスパ吸う人達で、もうハリー・スミスもすごい(笑)。

●じゃあパトリックの映像作品ていうのは他にもあるんだ?

C:あるある、あるけどお金になる様なモノじゃない。

●アーティスティックなものってこと?

C:アーティスティックでもない。彼は大体ドキュメンタリーが好きだったの。インディアンとか先住民とかそういうのが好きで、私の前のガールフレンドのお父さんも、パナマの有名なサンブレス・アイランド島のなんとか族っていう人で、そういう所に行って、16ミリ(フィルム)で撮ってたのね。サウス・アメリカのスリナムのアマゾンのジャングルに住んでる幻の金髪のインディアンを撮りに行ったりとか夢を追う人で、結局その金髪には巡り会えなかったけど。
今はもういないみたいだけどインディアン古来の生活をしている原住民を撮ったり、だからアマゾンを上って行ったりとかそういう作品はあるけれどね。

●ドキュメンタリー作家だったんだ。

C:そう、この間、私はそのフィルムを見つけて勿体ないからどこかに売ろうと思って、一生懸命に色々と企画書を書いてナチュラル・ヒストリー・オブ・ミュージアムに行ったら、そこにはインディアンのフィルムがずっと流れていて、パトリックのより良いのがガンガン流れていて、これはダメだって(笑)。もっと良いフィルムを見つけて私はもう諦めた。笑っちゃうでしょ、私シビアだから。

●いいねえ、Cherryらしい(笑)。

C:だからお金にはあまりならないみたい。

●でも映像っていうのは、その時しか撮れないから一概に評価はなんとも言えないけどね。

C:そんな感じかな。

●で、テッドとパトリックがそうやって知り合って、、、。

C:そう共通の仲間の紹介でね。私たちが巡り会う前からパトリックはレゲエが好きで、テッドもレゲエのドキュメンタリーみたいな共通なものがあって、、その頃(70年代中後期)はレゲエが最高の時だったから。

●テッドはジャマイカにも行ったりしていたんだよね。

C:そうみたいね、パトリックも興味があるから、多分テッドにとってパトリックというのは、うるさく言う人じゃないし自分のやりたい事をやらせてくれそうな人だったからかもしれない。
映画が出来あがってからはよく喧嘩をしていたけど、それはお金が無いからあまり払えないからそれが不満なのは分るけど、みんなが無かったからね。で、私はいつも怒るわけでもないけど、何年も経ってからパトリックの悪口とか、お金の事とかをみんなが言ってくる。すごかったんです。借りて借りて借りまくってやってたから、特にジャマイカ人がお金を貰ってないとか払わないとか。払ってなくて仕事をする訳無いでしょ? ジャマイカの人達が。
パトリックは偉かったと思うの。彼は自分のお金じゃなくても映画を終わらせたってこと。普通ハリウッドだったらお金が儲からないと思ったらパス、そこでこれ以上の赤字を出さないためにそこで止める。でもパトリックは自分がすごい目に遭ってでもなんとかお金を工面して映画を終わらせた。だからそのことを認めなければいけない。もしパトリックがビジネスマンだったらストップしてたと思う。

●全くその通りだね。

C:それをわかる人はあんまりいないんです。そのことで、私だって私の娘だって大変な思いをして生活してたのに。だから怒るんですよ。それは監督のテッドに対しても言ったんです、そしたらテッドは「分かる分かる、僕たちは本当に若かった」って言われた。

●本当にこの映画「Rockers」を作った時って二人ともすごく若いんだよね。

C:そう若いです、まだ20代ですしね。

●すごいことだね。

C:多分76年くらいから色々話を始めて77年に撮影が始まって。

●で78年にようやく編集が出来上がって。

C:そう、でもやっぱりお金が無いから色々と工面して、78年まで色々と編集にもすごく長い時間がかかって音楽が一番最後で、もう2年は過ぎていたからもう終わらないのかなとも思った。
その後、映画が完成してから十何年もずっと聞かされることになるんだけど、パトリックがお酒に酔うといつも同じように「俺はあの映画を作らなきゃ良かった」って。
今思うと彼は本当におかしかったんです。いつも「作らなかったら家族にもこんな思いをさせなくて良かった」とか、私も「多分あのロフトはまだ残ってた」とかつい言ってしまって。今だったらひと財産みたいなロフトを持ってたんですけど、そんなのはとっくに手放しちゃって、それもタダみたいな値段で手放して、、、今は一等地。それは後になって分ることでね、売った時はアル中の人がゴロゴロ寝てる地域だったけど。

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