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福島、『チャンネル・スクエア』というムーヴメント


Text by Riddim   Photo by Masaaki Akama(赤間 政昭)

 福島で、「CHANNEL SQUARE」(以下「チャンスク」)というムーヴメントが起きている。
 チャンスクとは、現在も建設に向けあらゆる努力が進行中の、スケートボードのインドア・パークとボルダリング、スラックライン等を擁する国内最大級の屋内スポーツ施設。また同時に、音楽やアート、各種講演に放射能測定までをも通じた新しいかたちのコミュニティ。そしてそれは、311から4年目を生きる福島県民の中から生まれた、誰にとっても未体験の状況をポジティブに転換させる可能性そのものだ。
 牽引するのは平学氏(44)。氏は1993年に地元、県庁のある福島市から南へ約25kmの二本松市、岳温泉にスノーボード/サーフ・ショップ「shredder(シュレダー)」をオープン。自身も大会等に参加し世界行脚しながら、県内における“ヨコノリ”文化普及に尽力してきた人物だ。
 福島駅から徒歩5分の一等地で、こちらはコンパクトな、チャンスクのモデル・スペースはすでに稼動中。2階のスケボー・ランプから響いてくる賑やかな音のもと、躍動する福島について聞いた。

●311以降、福島で民間からどんな取り組みが出てくるかを追ってきて、チャンスク建設は最も大きい計画の一つです。平さんは、自然に出番と感じて動き出したのか、必要にかられて動き出したのか。

平:オレはずっと、「遊びを仕事に」というテーマなんですね。だから最初の一歩は、福島で震災があり、この県の恵まれた自然環境の中で仕事させてもらってきたことに対する「気付き」です。震災前は夏や冬が来ることが当り前過ぎた。勝手に雪が降って、スノー・ボードやウェアが売れる。波が立てばサーフ・ボードとウェット・スーツが売れる。それが(311後)最初の1年間、サーフィンができなかったことでもの凄くストレスが溜まった。海では慰霊祭を3、4回やって、市役所や地元住民の方々と話すと、「サーファーに戻ってきてもらいたい」と。それを聞いてこっちも、「だったら入りましょう」と。でも、入るにしても「線量は大丈夫なのか?」って。

●過去、世界大会も開催された福島の海に汚染水が流れ出している。

平:自分たちは自然の中で遊んできたし、今後自然の中に行かなくなる福島の子たちに、「その面白さをどう伝えられるのか」と。それが、ここにまず作ったスケート・パークと、それまで専門ではなかったボルダリング、スラックライン。震災後によく言われる「福島の子は体力低下して、肥満児で」というのも、「いやいや、それ全国的な傾向だから」って(笑)。でも確かに「放射能があって表に出れない」ということはある。その上で「体を動かす」というテーマで、スポーツやライフ・スタイル、生き甲斐、活力っていう、今まで自分が感じてきたものを伝えていきたい。だから震災の年の5、6月頃には、みんなで集まり、体を動かし、会話、そしてコミュニティになる「インドア・パークを作ろう」って。

●かなり初期からのアイディアだったんですね。

平:一番最初に物資を集めたのが3月下旬頃。約2万点、仕分けが大変でした。それはツイッター、ブログ経由でカナダ、アメリカ、日本全国、仲間の業界、横の繋がりで集まりました。驚いたのはエア・カナダのスチュワーデスさんが、わざわざ自分の手荷物を少なくして、物資を飛行機に積んで日本に来て、ホテルから送ってくれて。それは石鹸とか、女の子の日常品とか。

●熱い動きです。

平:当時は世界中から、一週間くらいで「もう無理」ってくらい物資が集まって、4月中旬頃には避難所なんかからも「十分ある」って返されるくらいになって、「これじゃないな」って考えている頃、ちょうど「福島が気嫌いされている」って話も聞いてたんで、「ふざけんな」と。じゃあ、「逆にイベントやってやる」と。まず10万円以上のガイガー・カウンターを買って、色々なエリアを測り、猫魔スキー場は大丈夫なことを確認して。当時、福島に入ることすら嫌がってる人たちに、みんなが散々楽しんだスノーボード、スケート、サーフィンなり、ヨコノリ文化を軸にイベントをやるから、「5月の連休、待ってるわ」って。それで、その時の収益金の約150万円を南相馬の桜井市長に渡しました。海岸に市長が来てくれて、贈呈式はテレビで放送もされ、「お金はビーチの復興やサーファーのため」ということで。あの当時は自粛モードで、イベントなんか「やらない」「やれない」という中でそれが少しでも話題になったんだと思います。イベントのことを聞きつけて、「面白いやついるんだな?」って福島に来たのが高橋歩(自由人/作家)だったりしました。

●平さんのご自宅も、線量を測ったらかなりの高さだったとか。

平:とにかく、みんなの想いを集めて、シグナルを発信しないといけない。そしてやっぱり一番は、来てもらって実状を観てもらう。そうしてパワーやエネルギーを一ヶ所に集めていくイメージで、「震災前からやってきたイベントを、『箱』にしちゃえばいいんだ」と。そこで遊べて、ライブ、測定もできて飲食、物販もある。さらには「電気も全部再生可能エネルギーでやれたらね」って。

●周囲から「大規模過ぎて無理」という声はなかった?

平:誰も言わないですね(笑)。自分にも変な自信があって「やれる」って。ただ色んな人、政治家さんなんかにも意見を聞いたけど、助成金とか融資制度資金も「リスクが」って…一番嫌がるのがイベントと箱モノなんですね。だから本当は国や県、市から指定管理をもらっての運営が理想でしたが、制限されて好きなことがやれないんだったら抱えてるものを出し切れない。だったら民間で集めちゃおうって動き出したのが6月でした。

●海に入れなかったストレスが別方向へのエネルギーになった。

平:それに、身近なところに、例えば現場で声を出す“藤原カズヒロ”ってラジオのパーソナリティがいる。音関係はクラブNEO店長“七島”に任せ、福島大の経済経営学類には“奥本教授”、デザイン関係をやってくれている“豪”は県庁の中にいる。そして食に関するものは市内の「笑夢カレー」や、「ボヘミアン」の“けいすけ”と、気の合う仲間、役者が集まってきて、みんな呑むし、喋るし、面白い。さらにそこに(高橋)歩や復興庁から非常勤の人間、バンドならMAN WITH THE MISSION、踊りではEXILEのUSA君も入ってきて。

●御自身のショップを中心とした人脈も豊富と思います。

平:もともと自分は震災前からスノーボーダーで、サーファーでもあって、世界各地にトリップしてきました。

●それは一選手として?

平:国内ではハーフパイプの全日本大会に出たりしながら、海外には行けば行くほど知り合いが増える。ヨコノリの人種はレスポンス速い人たちが多くて、同時にピースな奴らばっかりで。

●世界に出る度、仲間が増えて行く。

平:歳関係なく同じ雪山、波で、言葉に関係なく感覚で繋がる。直感でサーファーもボーダーもスケーターも一緒で、刺激し合う。みんな、自分の本能の行動で動く。だから震災後、反応も良かったです。北海道や九州からグワッと人が来てくれたり、それはスポーツを超えた「ライフスタイル」の側面があるからだと思います。人それぞれやり方も違いますが、そもそもオレはその中で「格好良い遊びを、広く伝えていきたい」ということで活動してきました。インドア・パークにはボルダリングが加わりましたが、山登りが上手になれば得意になれる。スラックラインはバランスが鍛えられる。スケートだって、そこからスノボにもサーフィンも繋がる、ヨコノリの目線を培える。

●子どもが屋内で遊ばざるを得なくなった福島で、能力を鍛えて羽ばたける基地になる。

平:311前だって、天候で結局365日の1/3はできないわけです。それが屋内なら一年中できる。もちろん大自然の中が一番の理想ですが、同時にストリート・カルチャーをつくっていくんだったら、街のそばにないといけない部分もある。そして、そこを拠点に「あの山いいよ」、「今日は波いいよ」って情報を拡散していく。だからここを自然の中で遊ばせるための「起爆剤」にしたいんです。

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